幼稚園児の姪に教わった、現代を生き抜くための術

2021年4月13日

「それなぁに?」
「ラプンツェルだよ!」

世間ではコロナウイルスの影響で、リモートワークが推奨されたり、学校が休校となっている最中、幼稚園児の私の姪も例外なく在宅時間を持て余している。彼女の母親、つまり私の姉は仕事に行かなくてはならないため、私は休日返上で姪の面倒を見ている。

「サキーちゃん、おえかきしよう」
「いいよ。何描くの?」

「あのね、好きなもの描いていいんだよ」
「はーい、オッケー」

私は彼女が好きな花や果物、魚や動物などをらくがき帳に描き始めた。
その傍らで、4歳の彼女もなにやら真剣に描いている模様。チラッとそれを見てみたが、ちょっと理解できない……。

いろいろ描き終えて彼女を見ていると、彼女もこちらを見てきた。どうやら絵が完成したようだ。

「できた!」
にこにこして、嬉しそうにしている。

「おー!すごいね。それなぁに?」
「ラプンツェル!」

「……ふぅん、ラプンツェル……?」
「そうだよ!これがラプンツェルのおうちで、これがラプンツェルの髪の毛。ラプンツェルはここにいるの!」

ほう……私には、ない発想だ。
キャラクターを描くとしたら、やはり顔をドーンと描いてしまう。たいして上手ではないが、何となく、これ描いたのだろうなという気持ちは伝わる。キャラクターの顔こそが、そのアニメの代表的なシンボルとして、記憶に刷り込まれている。

しかし、彼女は、私が思ってもみない方向からアプローチしてきた。私はその感覚をおもしろいと思うと共に、もしかして、今の世の中にはこういう感覚が大事なのかもしれないと思った。

人生は、列車に乗って進む旅路である。
私たち日本人は、他人と同じことである種の安心感を覚える。みんながこれを着ているから、私も着る。みんなが進学するから、私もする。みんながそうしているから、私もする。

その結果、「あー、なんか初めは不安だったけど、みんなと一緒だから安心した!」という駅にたどり着く。それは集団生活が始まると顕著に現れてくるだろう。
そして、この「人と一緒」という線路から脱線する者があれば、「変わった人」とのレッテルを貼られ、事故扱いである。

しかし、これは正常なことなのだろうか?
一人ひとりの顔が違うように、考え方も違う。むしろ、違わないとおかしい。
私が、アニメキャラクターの顔を描くことをあたりまえと思っていても、姪は、塔から見える主人公の髪の毛を、そのアニメのシンボルとして描いた。

おばバカと言われるかもしれないが、わが姪っ子は、なんて素晴らしい発想の持ち主なんだろうと感心した。大人の凝り固まった頭ではなかなかできない。
笑顔もかわいいし、最近はおしゃべりする言葉も大人のマネをしたり、しかし、舌っ足らずになったり、「とうもろこし」を「トウモコシ」と言ったりして、とにかくかわいい。(しまった……気が付いたらずいぶんノロケてしまった……)

現代で生きていくためには、この子供のような柔軟な発想と、それを実行できる行動力と適応力がさらに求められていくのではないかと思っている。
そのためにどうしたらいいのかと私が考えたことは、物事について、まず率直に感想を持ってみること。損得勘定なし、忖度なし、社交辞令なしの感想である。

しかし、それを口には出さない。やはりそこは、人とのコミュニケーションという観点から思ったことをすべて素直に言えばいいというわけではないというのも、一理あるからである。

思うだけ思って、自分の中でそういう発想ができるのだということを確認してから、聞き流すなり、やんわりご意見してみるなりすればよいと思っている。

と、ここまで書いていて、人間関係って面倒くさいなぁと思ってしまった自分もいる。
それを掘り下げていくと、自由な発想で生きていくことには、人とのコミュニケーションがある意味、障害物となってくることが多いのでないか……。

姪のような幼稚園児では、人とのコミュニケーションに、まだそこまでの重圧を感じてはいないと思うが、成長するにつれ、自分のコミュニティ内でのコミュニケーションの取り方にむずかしさや窮屈さを感じるかもしれない。しかし、それとは逆に、楽しさを感じることもあるかもしれないが。

何はともあれ、今の、子供の時の自由な発想をずっと持ち続けて、自分の人生をめいっぱい楽しめる人間に成長していってほしいと願う。

私たち大人は、子供にいろいろ教えているような気になっているが、最近は、実は教えられていることのほうが多い気がしている。
この人生の中で、自分と出会うすべての人から教えられることがあるのだなぁと感じずにはいられない。

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